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キトラ古墳

石舞台からあるいて、高松塚古墳を通りこし、ついにキトラ古墳にたどり着いた。
本物の剥ぎ取られた壁画をみたものの、それがどこにあったのか確かめずに帰ってはもったいない。
せっかくだから、現地までゆっくり歩いて行くことにした。

着きました。
やっぱり、そのままの形で置いておくわけがない。
ちゃんと、施設にして保存が出来るように管理されているのね。

キトラ古墳


表に回ってみました。
古代とは縁遠い近代的な施設です。


キトラ保護


仮説保護施設、なるほどね。
やっぱり、現実を見るのは大切なことです。


何と言ってもこの場所は、周りを歩いてみないとわからない。
飛鳥の中心地から少し離れています。
やはり、権力の座から少し離れていた人物との印象を受けました。
ただし、気持ちのいいところです。
きっと、それなりの方の古墳なのでしょうね。


仮設保護


「キトラ古墳」の石室天井に描かれていた「星宿(星座)」は、高句麗、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壤(ピョンヤン)を含む北緯38~39度地域から見た星空をもとに描かれているのらしいもです。

高句麗と日本の関係は古く、「日本書紀」には、再三にわたって「高麗(こうらい)」の使者が来日したことが記されています。
人とともに、舞楽、「紙墨」の製法など、高句麗が誇るさまざまな技術も日本に伝えられました。
天文学もその一つなのです。

当時、日本では、天武天皇(在位672~686)が天文学に強い興味を示し、天体から吉兆を占う「陰陽寮」を創設されました。
渡来人の指導で、日本の技術者に暦や天文学、時刻などの管理をさせていたらしいのです。

ところで、キトラ古墳の被葬者ははこの天武天皇の第一皇子・高市皇子だといわれています。

高市皇子とはどんな人物だったのでしょうか。

小さい時から一緒に過ごし、将来を約束しあった十市皇女とは引き裂かれ皇女は大友皇子の妃になるのです。
その大友皇子と十市皇女も壬申の乱では敵味方となってしまい二人はついに急死してしまいます。

その時に高市皇子が作った十市皇女をしのんで作った三首の挽歌は有名ですよね。

これは、そのうちの一つです。



    神山(みわやま)の山辺真麻木綿(まそゆふ)短か木綿かくのみ故に長くと思ひき(万2-157)

    【通釈】三輪山の麓に掛ける麻の木綿(ゆう)、その短い木綿。こんなにも短いものであったのに、私は長いとばかり思い込んでいた。

    【補記】十市皇女の短命、または皇女との仲の短さを歎く。



高市が第3の地位に甘んじたのは、おそらく母親の出身の低さによるものだったのでしょう。
父帝崩後、草壁皇子が薨じ、代わって高市が皇太子に立てられたらしいのですが、菟野皇女は孫の軽王の成長を待ち、翌年即位の式を挙げて自ら皇位に就いたて持統天皇となりました。

それにしても、持統天皇はすごいですね。
権力の権化ですね。
まあ、子供のころから母方の祖父を父が殺したり、父と夫が闘ったり、権力闘争の中で生きてきましたから凄いですよね。


後に、御名部皇女(天智天皇の皇女)との間に長屋王をもうけたり異母妹の但馬皇女を妻としたらしいことが万葉にみえます。


この長屋王こそ、またまた悲劇の皇子です。
高市皇子に負けず劣らぬほどの、立派な方でした。
なのに、藤原氏側の光明子の立后に反対したため、殺されてしまうのですよね。

あ~、古代の皇子様は悲劇が多いですよね。
飛鳥を歩くと、高市皇子、大津皇子、安積皇子、長屋王、古代の皇子をしのんでしまいます。

現代は、ハンカチ皇子、ハニカミ皇子などたくさんいますが
女性が皇子様が好きなのは古代も現代も同じですね。








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